若気の至りと言いますか――雪組バウ公演を観てきた(その2)

※原作未読なので、あくまで芝居を見ただけの考察です
トンチンカンだったら全力でゴメンナサイ。


1幕が終わり、2幕が終わり、大変困ったことは
主人公のキャラが見えんってことでした。


いや、主人公よりも脇役や悪役の方がキャラが立ちやすいのは
古今東西の芝居や文学作品等が証明してるんですけどね。
(だから『マレフィセント』とかできるわけで。)
それを差し引いても、主人公のキャラがよーわからん…


で、色々考えてみたんだけども、
私のたどり着いた結論は、端的に言うと、
キャラがないのがファブリスのキャラなのだろうと。


よーするに、若気の至りと言いますか…
若いんですよ。青いんですよ。未完なんです。自分が無いんです←


ファブリスは僧院に入るまで、周囲に振り回され続けている。
とりあえず、幼くして両親が亡くなったっていう時点で
アイデンティティが確立しづらい環境で、
しかも時代的制約もあって、聖職者か軍人になるしか
身を立てる方法がなくて、ジーナに導かれるまま神学校へ。
素直っちゅーか、そこには自分の意志は無い。
これは主人公が悪いわけでも脚本が悪いわけでもなく、
時代的制約、これにつきるんじゃないかと思うわけで。


神学校時代のことはよくわかんないけど
ナポリのエピソードは芝居にはなかったし。原作にはあるのかな?)
親しい友人もそんなにいなかったんじゃないかと。
だからフェランテと友達になれて嬉しかったんだ。
(と、これはこじつけに近い笑)


ジーナに迫られた時もそう。いとも簡単にジーナに押し切られている。
それはせしこ、もといジーナが美しすぎるせいもあるんでしょうが…
なんてーか、とっても刹那的。快楽におぼれてると言われても仕方ないし、
後先考えてない。青い。


マリエッタを助けた時もそう。
セリフが聞き取れなかったとこもあるので
間違ってたらごめんなんだけど
マリエッタに「あんたは私と同じ目をしてる」的なことを言われて
「そうかも…」ってなって、一緒に逃避行、あげくに殺人犯。
なんてーか、ほんっと後先考えてない。
色んな意味で幼いよね。
マリエッタを助けたいという気持ちはとっても素直で純粋。
でもそれは一方で幼いとも言えるわけで。青い。それに尽きる。


唯一、クレリアを愛した時が、主体的になった時なんだよね。
でもやっぱり後先考えてない(笑)し、
見てる側は正直「えーーー(゚ω゚;A)」なんですな。


でも…この青さ、幼さって身に覚えがあるんですよ、私の場合。
ファブリスは23歳設定で、私(30代)より若いですが、
私も10代、20代のときはこんな感じだったよ(笑)。
ファブリスが両親を亡くしていて、ジーナに箱入りで育てられて、
神学校に進学して、世間ってもんを知る暇もなかったことを思えば
この青さもさもありなん…という感じがするわけで。


今から思えば私も痛かったさ…20代とかさ。
当時の色々、諸々、思い返したら恥ずかしいこともたくさんある。


それでもファブリスは僧院に入って、人を導く立場になったわけだから
立派なもんだと思うけどね。
クレリアを失った失恋の末の現実逃避だと言われたらそれまでだけど、
現代にだって僧院どころか、同じ宗教でも極端な方向に走ったり
僧院じゃなくてもひきこもっちゃう(物理的・精神的、両方あるけど)人もいるわけで。


そんなわけで、『パルムの僧院』ってのは
壮大な「若気の至り」話なんだなーって(ざっくりしすぎダロ)。
自分ってものが確立されてなくて、周りに振り回されて、
若くて青くて未完で刹那的で時に享楽的で危うくて。
だからこそ魅力的で人を惹きつける。それがファブリスってやつなんだなと。
ある意味人間臭いとも言えるか。


そんなことを考えていました。
難しい役を演じた咲ちゃん…すごいっす。