闘いか、対話か。

今日のある授業で、


「社会運動ではもう不十分で、これからは生活者の視点からの対話が
重要になっていくのではないか」


ということが言われていた。


もう少しつっこむと、グローバル化や高齢化に伴う諸問題への
生活者のレスポンスは、闘いでなく対話によるものへと
変わっていくのではないかということ。


私は、闘うことを知らない世代であると思う。


今、研究科の院生協議会長という役職に就いているが
私の役割は、研究科(事務方、先生方)と話し合って
研究科の環境を改善・発展させていくことにある。


数年前まではこれらの話し合いはまさに戦々恐々としており、
皆机をバンバンたたき、先生だろうと誰だろうと
指さして批判する、といったものだったらしいが、
今年度はいたって穏やかに話し合いが進んだ。


このことに関して、一部院生から
「協議会は何をやっている。もっと自覚しろ。闘え。」
といった声も聞かれるが、
私のスタンスはあくまで



「闘わずして、要求をし、勝ち取ること」
を目指すものである。


闘いを全面否定するものではないが、
あくまで私の考えとして
「闘いだけでは何も生まれない」
というものがある。


もう一度言うが、私は闘いを知らない世代だし、
そもそも闘い方を知らない。
そんな私が研究科に宣戦布告したところで一蹴されるか
一笑に付されるのがオチである。


だったら、うまいことうまいこと
互いの立場をわきまえながら要求をすりあわせ、
自分たちの利益を上げる方がいいんじゃないかと
思ってしまうわけである。


実は、私たちよりも少し下の世代になると
また、闘おうとする世代になっているように見える。
そういった意味では、我々は「狭間の世代」
なんじゃないかと思うところなのである。